世界中どこでも通用しない人になる?! 〜トランスローカリズムの実践〜


こんにちは、丑田です。
今月は「場所」をテーマに記事を!というボールを頂いたので、「トランスローカリズム」というアイデアを書いてみようと思います。

■巷でよくいわれる「これからの時代に生き残っていける人」像

大企業、中でもグローバルに展開している企業の文脈の中にいると、これからの時代生き残っていけるのは、

  • 「世界中どこでも通用する人材を目指せ」
  • 「世界中どこへでも行きます!という外向き志向」

あたりが出てくるのではないだろうか。あとは、「英語が公用語」。
僕自身も、前の会社にいた時は、なんとなく「まぁそうだよね」と思っていた。

これは、ある限られた文脈だと正しいけれど、必ずしも全ての人に当てはまるわけではない。別に、そうじゃないと生きていけないわけではないし、そうであっても生き残れるわけでもない。

ちょっとネガティブに捉えてみると、上に挙げた条件って、

  • 「世界中どこでも通用する」≒「能力を定量的に定義・比較しやすい仕事で、代替性が高い(日本人でもインド人でも中国人でもよい)」
  • 「世界中どこへでも行ける」≒「自分ごととして責任を持って関わる、顔の見える共同体を持っていない」

というふうにも解釈できるのだ。

つまり、これだけだと、

  • 人件費の安い国とのガチンコ勝負になり、それを埋めるために毎晩遅くまで働く(でも賃金は上がらないし、クビにもなる)
  • 実利ベースでのつながりしか残らず、何かトラブルが起きた時の安全地帯がない

という人生を送る人が量産されていく可能性がある。

もしこれが所謂「グローバル人材」であるなら、学生・就活生や若手社会人も、なんとなく世の中でいわれている「グローバル人材」路線になんとなく乗っかってしまうと、「思ってたのと違う」人生になりかねない。
また、これを量産するために教育を変えよう、ということになると、「ちょ、ちょい待って」となってくる。

無論、日本や企業を背負って世界で渡り合える人はめちゃくちゃ重要であるが、上記とは別の議論である。

■時間が経っても色褪せないもの

例えば、

  • 顔の見える関係性、家族や地域のつながり、実利を越えたつながり。
  • 一人ひとりのあり方・生き方、倫理観、使命感、創造性、情緒、人情、市民的・人間的な成熟。
  • 文化、伝統、風習、自然。

こういうものって、世界中どこでも通用するかといったらしないものも多い。
その場所でしかウケないネタとか、役立たない人脈とか、その場所に深く根付いた人にしかできない仕事があったりする。

また、特徴としては、

  • 価値が極めて定量化しにくい(論理的・言語的に説明しづらい)
  • 短期的な視点では価値を図りにくい(100年スパンで捉えないと意味を理解できないものがある)

一方でこれらの内包する価値は、短期間の世の中の変化や市場環境の変化程度では、劣化・コモディティ化しない、ともいえる。
人間を画一的なものではなく、デコボコにせしめているファクターであり、これらを大事に持っている人って、ひと味違った深みがある。

これらの価値の源泉として、「場所」に紐づいているものが多いように思う。
「場所」とは、「土地」であったり「共同体」であったり。

「場所」は、過去から現在、未来につながる長い時間軸を持っている。この長大な物語が、自身のアイデンティティや判断の基準になる。
何が起きても無条件で帰ることのできる安全地帯であり、同時に、守るべきものとして大義や動機付けになる。
海外に出ていく日本人も、自分自身の「母港」を持ち、そこに紐づく価値や大義を背負っている人は、とても強い感じがする。

長大な物語は、言葉や論理を越えて人の感情に深く突き刺さるので、逆説的だけれど、世界中どこでも通用しない価値は、世界中の多種多様な人たちに影響を及ぼす可能性がある。
つまり、結果的に、ビジネス的にもコモディティ化せずに生き残っていき得るともいえる。(勿論、しっかりビジネス観点を持っていれば)

「世界中どこでも」という文脈は、「場所」へのこだわりが弱くなりがちになる。
地球上で最も合理的な場所でビジネスを行い、雇用する。物価が上がったら移転する。
まさに僕自身が昔専門にしていた領域だったのでよくわかるのだが、「マーケットとしての可能性」「物価に紐づく人件費と、定量化可能なスキルのバランス」が判断基準であり、その土地自体の物語性や、そこに住む人たち・働く人たちのキャラクターは、あまり意識する機会はない。
激動の市場環境の中で、圧倒的に短いサイクルでPDCAをまわしながら舵取りをしていく。
必要なリソースは、一握りの司令塔(グローバルエリート)と、世界中のグローバルソルジャー。
このような経営スタイルがグローバル経営の王道であり、世界の先端を走り続ける限り、今のところ、高い利益を叩き出すことに成功している。多くの日本企業もこれに追随しようとしている。

一部の企業は、従業員が株主になる「ワーカーズ・コーポラティブ」化や、「非上場」「ファミリーカンパニー」の立場を維持することで、「場所」に根ざした経営を行ってるところも増えてきている。

これらのあり方は善悪の問題ではなく、自分がどう生きたいか、という種類の問題なのだと思う。

■トランスローカリズムというアイデア


「場所」に根ざして学びやビジネス・経済圏を捉えていく、というアプローチをつきつめていきたいと思っている。
例えば、目下ハバタクがDeepに潜って活動を行っている、ベトナムのホーチミン・ハノイや、千葉県の柏市での実践。もっと小さい単位で捉えてもいいかもしれない。

この一つ一つで起き上がってくるものが「草の根からのイノベーション」であり、一つ一つの「場所」は、インターネットの力も借りて、他の「場所」とトランスローカルにつながっていく。
完全に閉じたローカリズムは、刺激や多様な生き方に触れる機会、リソースの面で限界も出てくるから、他の「場所」との適度な”出入り”が意味を持ってくる。
(ハバタクがつくっている「ボーダーを越えた学び(Cross-Border Learning)」は、この部分の刺激剤にもなると感じている。)

また、所属する「場所」は決して一人一つ、というわけではなくて、国境を越えて「ボストン」と「柏」とか、「西宮」と「ホーチミン」が自身の中に共存している個人、という形にもなってくると思う。

ローカルの文脈を持っていて、世界中どこでも通用するわけではないけど、共感や価値の交換が成り立つ特殊な場所とつながっていく状態。これが重なりあって、結果的に顔の見える関係による生きたグローバル・ネットワークが構築され、ビジネスやその他の活動が生まれてくる世界。

このような考え方を、「トランスローカリズム」と呼んでみたい。

単純に世界均一のグローバリズムでもなく、地域に閉じるローカリズムでもない新しい「世界へハバタク」形ができるんじゃないか?それも人が幸せに生きていくためのひとつの可能性じゃないか?そのための学びと実践の場を、日本や世界に創り出していこうと思う。

国内外の各地で実践している方々とも、ご一緒に探究していきたい。

丑田俊輔

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